A-cars Historic Car Archives #022
'70 Dodge Challenger T/A
70年型ダッジ・チャレンジャーT/A
Text & Photo : よしおか和
(MOPAR Classics/2011 Jun. Issue)
Aug.23, 2024 Upload
66年にスタートしたSCCAセダン・チャンピオンシップ・シリーズ。一般にトランザム・レースとして知られるこのシリーズは、そこでの活躍が直接新車の販売成績に大きく影響するとあって各メーカーにとって非常に重要な舞台となり、67年シーズンからはワークス体制で臨むチームが目立つようになった。そして、こうしたワークス・チームが有名なドライバーを起用したことでレース・シーンは増々エキサイティングな展開を見せるようになり、特にフォード・マスタングとシボレー・カマロのせめぎ合いはアメリカのモータースポーツ・ヒストリーにも深く刻まれている。
こうした事実は本誌でもこれまでに何度となく解説されてきたが、それではこの時代のMOPARはどうだったのかというと、トランザム・シリーズの初年度よりダッジ・ダートとプリマス・バラクーダが参戦していたし、いくつかのチームはメーカーからの支援も受けてはいた。しかし、たとえばシェルビー・アメリカン(フォード)やペンスキー(シボレー)といったフルワークス・チームとはレースカーの総合力で比べものにならず、結果的に充分なアピールができないまま次第にその影は薄くなっていった。そして、時折出場するプライベーターを除くと、68年のシーズンからMOPAR勢の姿を見ることがなくなってしまったのである。
しかし、70年型で新たなるEボディ、すなわちダッジ・チャレンジャーとプリマス・バラクーダが登場したことで状況は変わった。クライスラー社はこの新型車でトランザム・シリーズに復帰することを計画し、大金を投じて強力なワークス体制を構築したのである。この計画はダッジ、プリマス両ブランドで遂行され、前者はレイ・キャルドウェル率いるオート・ダイナミクス、後者はダン・ガーニー率いるAAR(All American Racers)によってそれぞれチームが運営されることとなった。レースカーはクライスラーのファクトリーにてモノコック・ボディがアシッド・ディップ処理(酸に漬けることによる軽量化)された後にAARで基本的な部分がビルドアップされ、チャレンジャーはそこからオート・ダイナミクスに送られて細かなディテーリングおよびセッティングが成されたのである。エンジンを担当したのはあのキース・ブラック。340cuinV8をベースにSCCAのレギュレーションに合わせて304cuinまでディストロークされたスペシャル・ユニットは極めて高回転型で高出力という特性を持ち、具体的には8500rpm以上まわって、500hpオーバーのパワーを絞り出していたと伝えられている。
70年のトランザム・シリーズはカリフォルニア州ラグナセカで開幕したが、この開幕戦に出場したMOPARのマシンは3台。ライムグリーンのボディにゼッケン77を示したチャレンジャーとネイビーブルーを基調としたゼッケン42および48のクーダで、ドライバーは順にサム・ポージー、スウェード・サヴェージ、ダン・ガーニーだった。シーズン途中にしてガーニーが現役を引退するというハプニングこそあったものの、このMOPARのワークス・マシンたちが加わったことで70年のトランザム・レースは大いに盛り上がりを見せた。とはいえ、戦績はあまり芳しいものではなく、すでに経験を積んで熟成期にあったライバルたちにことごとく上位進出を阻まれた。ポージーが第2戦のライムロック、第7戦のエルクハート、第10戦のケントでそれぞれ3位につけ、サヴェージがエルクハートで2位を獲得したのが最高成績であり、結果的に、MOPAR勢は一度もトランザムを制することがなかったのである(シーズン終盤にはゼッケン76をつけたもう1台のチャレンジャーが追加出場を果たしたが、記録によるとこちらは一度も完走していない)。そしてマスキー法による排ガス規制の強化や若者の交通事故死急増など世間の風潮がレースに対して強い逆風になったこともあって、クライスラーは翌71年のシーズンには参戦を取りやめており、結果的にその戦いは70年のたった1シーズンだけのものとなったのである。
それでも、いや、それだからこそかもしれないが、70年型のトランザム・レース・ホモロゲーション・モデルは今日コレクターズ・カーとして珍重され、そのバリューもえらく高騰している。ダッジはチャレンジャーT/A、プリマスはAARクーダ、SCCAの規定によって2500台以上の市販が義務付けられていたことで、それぞれ2539台、2724台が生産された。だが、少なくとも80年代以前には現在のような特別な価値が認められていたワケではなく、過去にジャンクヤードに葬られたクルマが相当数あったとしても不思議ではない。そのため、一体どれだけの数の個体が現存するのかは定かでないが、希少性が相当増しているのは間違いのないところである。
ここで撮影したプラムクレイジーのT/Aはオリジナルの美しい姿を保つマッチング・ナンバーの貴重な1台であり、言うまでもなくMOPARファン垂涎の1台である。筆者はこうしたマシンの入手が現在よりも遥かに現実的に考えられた時代にそうしなかった(それでもできなかったのだが……)ことを悔やみつつ、その過激なスタイルを改めてファインダーに捕らえ複雑な溜め息とともにシャッターボタンを押したのだった。
チャレンジャーT/Aは新車当時に日本に正規輸入されなかったモデルなのはもちろん、70年モデルイヤーに切り替わってからしばらく後にリリースされたことで、本国における70年型の新車カタログにも掲載されなかった。そんなこともあって、80年代になってアメリカのカーマガジンなどが改めてマッスルカーを取り上げて紹介するまで、大多数の日本人にはその存在すら知られていなかった。しかし、当時の正規ディーラーであった安全自動車の部品課に勤務していたT氏が個人的に並行輸入された個体を所有していたことで筆者は比較的早くからその詳細を学び、レギュラー・モデルにはないスペシャルな仕様となんとも言えない過激なスタイルに憧れたものである。そして今、こうしてじっくりとその姿を見ても、やはりオリジナルとは考え難いギミックが随所に光っていて、改めてMOPARの遊び心を痛感するのである。
ボディサイドを飾るストライプ・デカールもT/Aの専用アイテムであり、ほかのモデルとの共通性はない。
エンジン・コードJで示されるチャレンジャーT/Aの搭載ユニットは、スモールブロックのハイパフォーマンス版となる340-6PACK。その名のとおり2バレルのキャブレターを縦に3基連ねたレイアウトだが、決してインテーク・マニフォールドから上の部分だけが違う訳ではなく、バルブトレイン系など内部のパーツ構成も通常の4バレル仕様のユニットとは異なっている。カタログデータは、ボア4.04×ストローク3.31インチ、圧縮比は10.5:1で、最高出力290hp@5000rpm、最大トルク340lbft@3200rpm。ちなみに、SCCAのレギュレーションでは69年シーズンまで排気量が302cuin以内に制限されており、ホモロゲーションを獲得するための市販モデルもこれに準じていた。しかし、70年からはこれが緩和され、レース車輛のエンジンは305cuin以内、市販モデルは実際のレース・エンジンとボア値さえ同じならその排気量を上まわっても良い、とされた。これにより340-6PACKが実現したのだが、2×3のキャブレターはどちらかというとイメージを重視したものであり、実際のレースでそれが使われることはなかった(レースマシンは4バレルだった)。
シュノーケル・スタイルのエアイン・スクープを備えたFRPフードは、T/Aならではの専用アイテム。フラットブラックに仕上げられているのが特徴だ。
リアホイールの前方で斜め後ろ向きにフィニッシュするサイドマウンテッド・エキゾースト。これもトランザム・ホモロゲーション・モデル独自のスタイルである。
15インチのラリーホイールにセットされたタイヤは、フロントがE60、リアがG60というのが当時の標準だった。なおT/Aにはエキストラ・ラージ・フロント・スウェイバー、リア・スウェイバー、クイックレシオ・ステアリングなどをパッケージしたスペシャル・サスペンションが与えられたが、基本設計自体は標準モデルとなんら変わらない。レースカーはその車高こそ一段と低く構えているものの、やはり基本デザインはストックと同様のフロント・トーションバーであり、シーズン開幕前に初めてレースウェイでそれをテストドライブしたサム・ポージーは第一声で「ボートみたいだ!」と話したという。確かにタイトなコーナーを攻めるロードレースに最適のサスペンションとは言えないかもしれないが、それを踏まえた上でストリートで遊ぶには実に面白いクルマとも思えるのである。
フロントおよびリアのスポイラー、そしてリア・ウィンドウに備えられたルーバーはオプション・アイテムである。
ハイ・インパクトカラーの代表とも言えるプラムクレイジーのボディには、このホワイトインテリアが良く映える。70年型のみ独自のデザインとなるダッシュが標準のインパネ、すなわちレブカウンターを伴わない仕様となっていることで、いわゆる“ラリーダッシュ”がT/Aにおいてはあくまでオプションだった事実が窺い知れる。トランザム・レースのホモロゲーション・カーとは言え、実際に市販されたT/AはAT(トルクフライト)仕様が相当な割合を占めたと言われており、撮影車もATを備えたモデルである。